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中村育子栄養士の訪問栄養指導レポート町亞聖の「介護の思い出」 町亞聖の「介護の思い出」(1)

突然始まった“介護”

母がくも膜下出血で倒れたのは私が18歳の時、高校3年の冬でした。母はまだ40歳。本当に突然で一時は心臓も呼吸も止まり生死の境を彷徨いましたが、なんとか一命はとりとめました。ですが言語障害、右半身マヒ、知能の低下という重い障害が残ってしまいました。まだ弟は中学3年生、妹は小学6年生。私が母親代わりをやらなければならなくなったわけですが、全てを投げ出して逃げ出すには私も幼く、他に選択肢はありませんでした。介護保険制度もなく家族が介護をやるのが当たり前の時代。まして10代で介護をしている友人がいるわけはなく、相談する窓口などもなく。。。全てが手探りでまるで出口の無いトンネルに迷い込んだようでした。

共働きだった我が家の一本の柱がなくなり、更に母の医療費がのしかかり家計は火の車でした。家賃や光熱費を翌月にまわしたり。。。なんとか遣り繰りしながらの生活で、私が働きながら母の介護をした方が良いと言う親戚もいましたが、父が"大学には行って欲しい"と後押ししてくれました。

今思えばあの時に進学を諦めなくて本当に良かったと思います。一浪することになりましたが、もし生活の全てが母の介護だけになっていたら心の余裕を持って弟妹の面倒をみられなかったでしょう。何より大学に行っていなければアナウンサーにはなれませんでした。経済的、時間的余裕はなく、勉強、家事、介護と浪人中も大学4年間もあっという間に過ぎていきましたが、失ったものよりも得たものの方が沢山あり、学生時代を家族に捧げたことに悔いはありません。

“発想の転換”

一年のリハビリ入院を終え母が我が家に戻ってきてからが本当のリハビリの始まりでした。病院はバリアフリーで車椅子でも自由に動けますが、狭く段差だらけの家の中ではそうはいきません。父は仕事、私達姉弟は学校に行かなければなりませんので、母が昼間1人で過ごせるようにトイレやベッドまでの移動など一から訓練しました。そんな中で私達が心掛けたのは母を母として扱うことでした。“出来ないこと”ではなく“出来ること”を数えていく。そして私達がいないと何も出来ないのではなく、私達がいれば何でも出来ると『発想の転換』をしました。時間はかかりましたが母も母親の自覚を取り戻し、左手だけで掃除や食器洗い、洗濯物を畳んだりと料理以外は何でも出来るようになりました。家具や柱のあちこちには母の車椅子や装具でガリガリに削られた跡がありますが、それは全て母が頑張った証で、今も愛おしいです。

今を肯定する

とはいえ同世代と同じように遊んだり1人暮らしをすることは出来ませんでしたので他の人が羨ましく思えたことも正直ありました。ですが身体が不自由になり1番辛くもどかしかったのは母です。母が元気になる夢を私も何度も見ましたが本人はもっと夢見たはず。。。“今の母と、そして自分を肯定しよう”そう心に決めました。
実は辛い時に私達家族を救ってくれたのは母の笑顔でした。脳卒中の患者さんはやはりどうしても我儘になってしまいがちと先生や看護師さんに言われていましたが母には一切そんな所がなく、いつも家族をひまわりのような笑顔で迎えてくれました。「身体が不自由になったけど幸せだったと母には思ってもらいたい」私のささやかな願いでした。

“気づき”の大切さ

当時、バリアフリーという言葉もなく街中は段差だらけでしたが、車椅子の母を色々な所に連れて行きました。近所のスーパーやあえてバリアフリーではない海や梨狩りなど自然の中にも出掛けていきました。車椅子でも1人で自由に移動できるバリアフリー社会になって欲しいと思いますが、常に100%の環境が整っているわけではありません。少しのバリアがあることでそれを乗り越えるために頑張る努力や差し伸べられる人の手の温もりを大切にしたいと思ったからです。

母が車椅子にならなければ気がつかなかったことが私自身沢山ありました。今は車椅子用のトイレは当たり前にありますが、今から20年以上前は車椅子で入れるトイレを探すのに非常に苦労しました。社会はバリアだらけで障害者やお年寄りに優しくないことや支援の面でも意識の面でも非常に遅れていることなど。また医療費の補助制度に“高額療養費制度”という一定の額を医療費が超えた場合は超えた分が後から返ってくるという制度がありますが、そういった制度があることも知りませんでした。当時、病院のソーシャルワーカーの方がとても親切でアドバイスしていただいたので利用することができました。もしこの制度があることを知らなかったら我が家は母の医療費で押しつぶしされていたかもしれません。何もしなければ社会は変わりませんし、私達が関心を持ち知ろうとすることが大切だと感じています。
何より車椅子の母と街中に出ることで何処が不便なのか知ってもらうきっかけになればと思いました。罪深いのは“見て見ぬふり”をすること。気づき、小さくても良いので行動に移すことは決して難しいことではありません。

両立の難しさ。。。

学業と家事、仕事と家事の両立は簡単なことではありませんでした。大学時代は毎日家族5人分の献立のことで頭が一杯でした。食費もひと月一万円という厳しい時もあり、一週間分をまとめ買いして節約するなど工夫をしました。恥ずかしながら高校の時は家事の手伝いなどしたことがなかったので、ご飯が上手く炊けなかったり、塩っぱい煮魚を作ったり失敗も沢山しました。ですが元来負けず嫌いの性格で、母親代わりをやるからには店屋もんに頼るのが嫌でなるべく手作りの料理にこだわりました。母には見た目でも楽しんでもらえるように主食以外に煮物、酢の物、お浸しなど品数を増やしたり、また高血圧の人向けに塩分を控えたりと料理本を片手に試行錯誤の毎日でした。

今みたいにコンビニもインターネットもなく、まして食べやすいように工夫した介護食など頼れるものはありませんでした。やはりそう考えると介護の中で食事を作ることが1番大変でした。あともう一つ大仕事だったのは入浴です。母は身長が170センチ近くある大柄な人だったこともありバリアフリーではないお風呂で入浴させるのは毎回格闘で、父と妹、そして私の3人がかりでした。毎日入れてあげることはできず介護保険がもしあったら“入浴サービス”を利用したかったです。また食事のサービスもお願いしたかもしれません。

介護は“学び“

18歳の時に突然直面した介護でしたが介護保険制度も無い中でやりきれたのは家族がいたからです。父や弟妹のことはまた次回書こうと思いますが母が倒れた時、父もまだ41歳。家のことは全く出来ませんでしたが毎週末リハビリの油絵教室やプールに連れて行ったりと母のために一生懸命に心を尽くしていました。
介護のために自分のことを少し後回しにしなければなりませんが、いつか必ず介護にも終わりがやってきます。また介護には正解がありません。10人いれば10通りの答えがあると思います。介護を必要とする人も介護をする人も後悔のない人生を歩んで欲しいと願っています。
残念ながら私達家族の介護は再び母を襲った病のために終わりがきてしまいました。
“老い”と“死”は誰にでも平等に訪れるということを母は身をもって教えてくれましたし、“最期までどう生きるか”母の車椅子を押して過ごした日々は私にとって掛け替えのない学びの場でした。もう一度母に会えたなら“本当にありがとう”と伝えたいです。

町亞聖 プロフィール

  • 性別 : 女性
  • 誕生日 : 1971年8月3日
  • 血液型 : O型
  • 職業 : その他
  • 職業詳細 : フリーアナウンサー

子供の頃からアナウンサーに憧れ1995年に日本テレビにアナウンサーとして入社。
その後、活躍の場を報道局に移し、報道キャスター、厚生労働省担当記者として医療や介護問題などを中心に取材。(がん医療、医療事故、不妊治療、難病、社会保障問題など)
2011年にフリーアナウンサーに転身。
脳障害のため車椅子の生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そして母と父をがんで亡くした経験をまとめた「十八歳からの十年介護」を出版。
医療と介護を生涯のテーマに取材を続ける。

<出演番組>
★テレビ朝日 「ワイド!スクランブル」木曜日コメンテーター
(午前11時25分~昼1時05分OA)
★TOKYO MX「5時に夢中!」金曜日MC
(午後5時~午後6時OA)
★TOKYO MX「5時に夢中!サタデー」土曜日MC
(午前11時~昼12時OA)
★TOKYO MX「ニッポン・ダンディ」月~水曜日MC
(夜9時~10時OA)
★ラジオNIKKEI介護番組「集まれ!ほっとエイジ」
月~水曜MC(午前11時半~昼12時OA)
★テレビ東京「大人の極上ゆるり旅」水曜ナレーション
(午前11時35分~昼12時半OA)

そのほかBS医療番組など多数出演



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