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中村育子栄養士の訪問栄養指導レポート町亞聖の「介護の思い出」 町亞聖の「介護の思い出」(2)

絆を取り戻す

高校卒業後、父は福岡からそして母は熊本からそれぞれ上京。大恋愛だった2人は東京の片隅の四畳半一間の小さなアパートで生活を始めました。まさに“神田川”の歌のようだったそうです。そのアパートの前で産まれたばかりの私を抱っこして写真に写るまだ若い父と母はとても幸せそうに微笑んでいました。それから20年あまり、、、まさか母が車椅子の生活になるなんて父も想像していなかったに違いありません。

人生には色々なことがあるもので、実は母が病気をする前、夫婦仲はあまり良くありませんでした。というのも父は酒癖が悪くお酒を飲むとちゃぶ台をひっくり返すような昭和の親父だったのです。私もそんな父が嫌いで、高校を卒業したら一刻も早く父の元を離れるつもりでいました。もし母が倒れてなければ2人は離婚し、私も家を飛び出して家族はバラバラになっていたかもしれません。神様は私達家族に再生するチャンスを与えてくれたのだと思います。

母が全て、、、

母がくも膜下出血で倒れた時に一番大きなショックを受けたのは父でした。片時も離れず献身的に看病する姿からは母を愛する想いが痛いほど伝わってきました。お弁当の配送業をしていた父は毎朝4時には起きて仕事に向かう生活でしたが、母の状態が落ち着くまでの数ヶ月間、寒い病院の待合室に寝袋を持ち込み泊まりこんでいました。リハビリの病院に転院してからも仕事が終わると毎日病院に行って母のそばに寄り添っていました。家から遠く交通費もかかるために子供達は週末しかお見舞いにいけなかったので、後遺症で少し幼くなった母も父だけが頼りでした。また離婚まで考えるほど仲が悪かったということを母はすっかり忘れてしまっていました。(これは病気のおかげですね(笑))自宅に母が戻ってからも父は変わらず生活の全てを母に捧げていました。母が父の人生そのものだったのです。そんな父は母が亡くなった後、大きな喪失感を抱えうつ状態となりました。

実は母が末期のがんと分かった時に父にも初期の胃がんが見つかり手術、自宅療養をしていました。身体も心も弱り切ってしまった父は様々な病気を併発し6年後に後を追うようにこの世を去りました。人生の全てを介護だけにしてはいけないということを父の姿を見て痛感しています。介護する人も自分の人生を大切にして欲しいと思います。父には自分も生きて欲しいそれが母の願いだったと思います。

家族がいたからこそ

母の大病は私達姉弟の運命をも変えていきました。弟は我が家の経済状況を考えて大学進学を諦め消防士になりました。「“妹の制服が買えない”と聞いたら無理を言えないよ」と誰にも相談せずに就職を決めた弟。家のことを思って決断してくれたのに弟にも大学に行って欲しいと思っていた父は弟の選択を頑なに認めませんでした。本当に困った父です。消防士は人の命を救う尊い仕事なのに、、、父と弟が和解するまでには少し時間が必要でしたが、母を中心に次第に距離は縮まっていきました。
そして妹はというと私とは真逆の人生を歩んでいます。普通のOLの妹は高校の同級生と結婚し今では二児の母親です。妹がしたためた結婚式の手紙にはこんな言葉が、、、「小さい時から私達姉兄が一緒に過ごした時間は悲しいことや辛いことが沢山あったね。ここまでの人生を真っ直ぐ前を向いて歩いてこられたのも、笑うこと感謝すること家族の大切さを忘れずにいられたのはお姉ちゃんお兄ちゃんが支えてくれたからです」母が病気で倒れた時、まだランドセルを背負っていた幼い妹。母親が最も必要な時に母がおらず一番寂しい想いをしたと思います。でも泣き言を言わず「私はお姉ちゃんより恵まれている」といつも私を励ましてくれました。“当たり前であること”“普通であること”の幸せを私が忘れないでいられるのは妹のおかげです。反面教師の父、支えているはずが、いつの間にか私を支えてくれていた弟や妹それぞれに役割があり、家族がいたからこそ逆境を乗り切れたのだと思います。

意識の改革

私は小学生の頃から憧れていたアナウンサーになることが出来ましたが生活は相変わらず母が中心でした。大学時代と同じように仕事が終わると飛んで帰り家族のご飯を作る日々。ただアナウンサーは今で言うと“フレックス”の仕事だったことが幸いしました。深夜番組を担当していた時は午前中は時間がありますし、また早朝番組の時は遅くとも夕方には帰宅できますので空いている時間に買い物や食事を作ったりしていました。恐らく朝8時に家を出て夜8時にしか帰れない仕事だったら、仕事と家事の両立は難しかったかもしれません。

介護保険制度がスタートしてから12年以上が経つにも関わらず、未だに介護のために仕事を辞めざるを得ない女性が沢山います。「介護のために仕事を休むと周囲の人に迷惑がかかるから」という理由が多いのですが、これからは介護は女性だけの問題ではありません。男女関係なく全ての人が直面する可能性があります。独身の男性も増えていますし、離れて暮らしている親の介護をどうするのか。残念ながら今の介護保険制度だけでは十分ではありません。

会社や社会の理解、そして何より本人の意識の改革も必要です。介護で休むことを後ろめたいと思わないですむ環境を作るためには当事者の日頃からの努力がやはり不可欠です。理想はそんなに肩肘を張らないでも休めるのが一番良いのですが、、、私も会社を休まなければならない時に「町の代わりなら仕方が無い」と思ってもらえるように200%で仕事に取り組みました。周囲の人も「もし自分だったら」と考える余裕があればもっと優しい社会になるのかもしれません。

命には限りがある

相変わらず何歳になっても誕生日は家で祝うという習慣や恋人がそれぞれ出来ても必ず家に連れてきて一緒にご飯を食べたりと、本当に家族で過ごす時間を大切にするようになりました。この平穏な日々はいつまでも続くと思っていました。しかし、、、ある日の夕食時に突然、母が大出血しました。車椅子に敷いてある座布団から血が滴るほどでした。病名は『子宮頸がん』もう手術が出来ない状況でした。「何故母だけがこんな目に遭うのか?」この時ばかりは神様を恨みました。でも悪いのは私でした。言葉と身体の不自由な母の体調の変化には私が気づいてあげなければなりませんでした。子宮頸がんは予防できるがんで、発見が早ければ完治できるがんです。今でも心の底から悔やんでいます。がん医療に関する取材を始めたのは母の死がきっかけでした。子宮頸がんで亡くなる女性を少しでも減らすことが母への罪滅ぼしだと思っています。
「生きることの意味」を母は再び考える機会を与えてくれました。泊まり勤務明けの弟に母の病名を告げると「人生は長さじゃなくて深さだよ。元気なお母さんを沢山の人に見てもらおう」と言ってくれました。悲しい経験が私達姉弟に年齢には不相応な思慮深さを与えてくれました。18歳の時は1人で全てを背負わなければなりませんでしたが、今回は私1人じゃないそう思えたことは大きな救いでした。
がん告知から一年半の間、放射線治療と抗がん剤治療をしながら入退院を繰り返しましたが、母の病室には家族の誰かが常にいるようにしました。

言葉が不自由な母は細かいコミュニケーションを取ることができませんので「お母さんノート」を作りお見舞いに行った家族が母の体調の変化など気づいたことを書くことにしました。このノートは看護師さんとのやり取りにも非常に役に立ちました。がんは不思議な病気です。がんと分かっても見た目には何ともなく、母も「元気なのに」と繰り返していました。しかし確実に母の命の限りは近づいていました。抗がん剤の効果よりも副作用の方が大きいと感じた私達家族は母の治療を緩和ケアに切り替えることを決断しなければなりませんでした。

在宅を選ぶ

これまで不自由な生活をしてきた母には最期は住み馴れた我が家で過ごさせてあげたい。
そんな私達の願いを叶えることができたのは医療のサポートがあったからでした。今から10年以上前ですので当時はまだ「緩和」という概念はほとんどありませんでした。ですが近所の病院で本人が望めば抗がん剤治療もしてくれるし、モルヒネによる痛みの緩和などを行う「緩和治療科」という科が試験的に導入されていたのです。在宅で看取るための準備をするために、まず主治医の先生と家族で何時間も話合いをしました。在宅を選択するためには家族の覚悟が必要です。容体が急変した時を家族だけで迎えるということは「延命治療をしない」ということです。その時に動揺しないでいられるか、、、不安はありましたが先生の「町さんの家族なら大丈夫」という言葉が後押しをしてくれました。栄養を補給するための点滴、人工肛門、尿のカテーテルなど母には沢山の管がついていましたが、どれも最期まで生きるために母には必要な処置でした。

在宅で必要なのは高度な医療ではなくきめ細かい体調管理です。毎日来てくれる看護師さんたちが丁寧にケアしてくれました。また「調子は良い悪いの波を繰り返しますがどちらも本当のお母さんの姿だと思って見守ってください」と母が辿るであろう経過を少しずつ私達家族に説明してくれました。家族はそばにいることしか出来ませんが、でもそばにいて寄り添い話かけることはできるそう思いました。

10年ぶりの湯船

在宅で利用したサービスの中で忘れられないのが「入浴サービス」です。自分で動くことのできない母を家族の力だけで入浴させることは不可能だったので訪問入浴のサービスを利用することにしました。湯船が大きいので家の中で入浴ができるか確認する事前訪問があり、その時に「私達が入浴のお手伝いをしますので安心してください」と母に声をかけてくれました。まだ介護保険のない時代でしたし、入浴を第三者にお願いすることには実は抵抗がありました。ですがその考えは間違いでした。初めてのことで怖がり泣き叫ぶ母をバスタオルにくるみあっという間に湯船に速やかに移動してくれました。スタッフの皆さんの手つきは本当に丁寧で、母の不安を和らげるために明るく大きなかけ声をかけてくれている姿からは「血の通う人間」をケアしているという意識が伝わってきました。湯船を出る時には母も「えーーー」と不満の声をもらすほど。入る時にはあんなに嫌がったのに・・・。

その日の夜、母は寝息を立ててぐっすり眠ることが出来ました。10年ぶりの湯船は母にひと時の安らぎをもたらしてくれたのです。もっと早く訪問入浴サービスを利用すれば良かったと後悔しました。当時は利用できるサービスはほとんどありませんでしたが今は違います。家族だけで全てやろうとせずに食事のサポートなどどんどん介護サービスを使っていくべきだと思います。

心は自由、、、

自宅に戻って一か月半、穏やかに時間は過ぎていきました。抗生物質をいくら投与しても下がらなかった高熱が下がり、赤黒く濁っていたおしっこも透明になるなど、住み馴れた環境に戻ったことで免疫力が上がったのかもしれません。私達家族もお見舞いに行くのではなく、普通の暮らしをしながら母のそばにいられるので精神的にもとても楽になりました。当時、私は早朝の天気番組を担当していて夜中の2時前には家を出なければなりませんでしたが、出がけに母のベッドをのぞくといつも起きていてくれて左手を私の背中に回し「行ってらっしゃい」とハグをして送り出してくれました。もしかしたら母と交わす最後の会話かもしれない、、、そう思いながら過ごした時間はかけがえのないものとなりました。言葉が不自由な母は自分の感情を表現する術がありませんので先生とも相談し、がんの告知はしませんでした。恐らく最後は分かっていたと思いますが、母は泣き叫んだり自暴自棄になったりせずにただ静かに自分の運命を受け入れていました。

本当にすごい母でした。そしていつも「感謝だわ」とつたない言葉ではありましたが私達家族に言ってくれていました。当たり前に繰り返されると思っていた日常は決して永遠ではないのです。最期は家族みんなに見守られ母は息を引き取りました。本当に最期の瞬間に父を見て微笑んだように感じました。不自由が多い人生でしたが母の心は自由だったと思います。

介護が語れる社会に

母と過ごした10年は本当に神様が与えてくれた「奇跡の時間」でした。最初の病気の手術の時に母が死んでいたらその後の気づきや学びを経験することはできませんでした。私達家族は悲しい出来事がきっかけでしたが、愛する人を失う前に大切なことに気が付いて欲しいと願っています。そのためにも必要なのは介護が語れるようにすることだと思います。

これはがん患者さんにも同じことが当てはまります。入社時から母が車椅子だったことや在宅で看取った経験を持つ私には介護や病気の話がし易いのか「実はうちも」と打ち明けてくれる人が少なからずいました。体験者が語っていくことで社会は絶対に良い方向に変わっていきます。今の新しい目標は「介護や病気が語れる社会」を作ることです。

町亞聖 プロフィール

  • 性別 : 女性
  • 誕生日 : 1971年8月3日
  • 血液型 : O型
  • 職業 : その他
  • 職業詳細 : フリーアナウンサー

子供の頃からアナウンサーに憧れ1995年に日本テレビにアナウンサーとして入社。
その後、活躍の場を報道局に移し、報道キャスター、厚生労働省担当記者として医療や介護問題などを中心に取材。(がん医療、医療事故、不妊治療、難病、社会保障問題など)
2011年にフリーアナウンサーに転身。
脳障害のため車椅子の生活を送っていた母と過ごした10年の日々、そして母と父をがんで亡くした経験をまとめた「十八歳からの十年介護」を出版。
医療と介護を生涯のテーマに取材を続ける。

<出演番組>
★テレビ朝日 「ワイド!スクランブル」木曜日コメンテーター
(午前11時25分~昼1時05分OA)
★TOKYO MX「5時に夢中!」金曜日MC
(午後5時~午後6時OA)
★TOKYO MX「5時に夢中!サタデー」土曜日MC
(午前11時~昼12時OA)
★TOKYO MX「ニッポン・ダンディ」月~水曜日MC
(夜9時~10時OA)
★ラジオNIKKEI介護番組「集まれ!ほっとエイジ」
月~水曜MC(午前11時半~昼12時OA)
★テレビ東京「大人の極上ゆるり旅」水曜ナレーション
(午前11時35分~昼12時半OA)

そのほかBS医療番組など多数出演



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